タイタニックと気比丸の救助活動
(タイタニックのシーマンシップはどうなっていたのか?)



1.タイタニックの救命艇が定員分あったとしたら

建造初期の段階で Harland&Wolff 造船所の総支配人である Mr.Alexander Carlisleは、注文主の White Star 社に対し少なくとも63隻の救命艇の搭載を示唆しています。どういう理由でこの数字が出たのか分かりませんが、その後新しいダビットを開発したウエリン社の計画図では各ダビットに2隻ずつ合計32隻を配置した図面が残されています。最終的にはエンゲルハルトボート4隻を含む20隻が搭載されました。タイタニックの5年先に建造されたキューナード社のモレタニヤ、ルシタニヤが前後4隻ずつ、計16隻だったことにも影響されたのかも知れません。

ところで、タイタニックに定員分の救命艇が備えられていたら、犠牲者はずっと少なかっただろうと言われています。本当にそうなのか考えて見ました。沢山備えてあっても全艇を下ろす時間がなく、デッキに固着されたままの救命艇は本船と共に水没してしまい生存者はそれほど増えなかっただろうとの結論に達しました。以下、この辺の事情を気比丸遭難の事例と比較してみました。また、短時間に全員が救助された八坂丸と照国丸の例も参考までに表にしてみました。救命艇の降下に要した時問に注目して下さい( 表1:遭難状況の比較 )。

気比丸沈没事件といっても戦前のことで記憶にない方もおられると思いますので先ずこの事件の概要を取り上げて見ます。


2.気比丸事件

2.1 本船の概要

本船は昭和13年(1938)浦賀船渠で月山丸の二番船として北日本汽船(株)の日本海航路向けに建造された砕氷型貨客船で、タイタニックと比べればほんの小船といったところです。要目は次のとおりです。
_______________________________
主要寸法
108.60×15.00×8.80-6.30
4,523総トン速力17ノット

船級
NS*f with Ice ClassD,
MNS*BS*f with Ice ClassD,MBS*
(NSは現存の日本海協会,BSはロイドとは別の
英国の船級協会で、戦後ロイドと合併した。)

主機は、
浦賀式複二連成低圧タービン付き1基

最大出力3,000軸馬力
一段目気筒径330mm
ニ段目気筒径600mm
行程400mm

一般配置図によればタービンとレシプ
ロを流体継手で繋いで一個の推進機を回すように
なっています。

旅客定員
一等20名, 二等58名, 三等680名
合計758名

航路
敦賀-清津-羅津 航路,(清津,羅津は北朝鮮の港で
日本海を横断し二泊三日の航海)
_________________________________________

タイタニックと気比丸とを同じ縮尺で比較をしたのが図1です。


図1 タイタニックと気比丸



1) 昭和16年(1941)10月5日、(太平洋戦争開始約1月前)敦賀に向け14:20清津港出帆

_________________________________________
乗船人員 446名
貨物 490トン
郵便物 2個積載

「乗客・船員内訳」+++++++++
船客
一等5名, ニ等61名, 三等281名
船客合計357名
船員
士官18名, 船員71名
船員合計89名
_________________________________________

三等船客中121名は満蒙開拓義勇団員(満州開拓のために派遣された青年達)で徴兵検査を受けるため帰国中でした。当時の日本国民は皆、兵役の義務があり、兵役免除の学生等を除き満20歳になると徴兵検査を受け一定期間軍隊に入る義務が課せられていました。

2) 10月5日出港後約8時間した22:14、船首左舷にソ連の浮遊機雷が接触、一番 Hatch cover, Hatch board 飛散、Bridge 周囲窓ガラス破壊、一番艙左舷客室は破壊され該部の三等船客全滅、一番艙内左舷外板に破口、幅約1尺(30cm)、長さ不明、海域は北緯40度39分、東経131度57分、当時波浪はかなり高かったとされています。

3) 同日23:10〜15 触雷一時間後に船首より沈没、水深1,900mとされています。
タイタニックは氷山との接触が23:40、沈没が02:20で沈没まで2時間40分掛かっており、海は平穏でした。遭難海域は図2のとおりです。


図2 気比丸遭難海域



2.2 犠牲者と生存率

一時間後に沈没した気比丸の犠牲者と生存率は次のとおりです。参考までにタイタニックの生存率を括弧内に示しました。




三等船客の犠牲者が多いのは、一番中甲板の客室部に直接触雷、爆破により即死した者がいたことによるものですが、即死者が何人だったかは分かりません。

各三等客室の定員は次のとおりで、一般三等船客は、二番中甲板の客室があてがわれており義勇団員は主に一番と三番に収容されていたとされています。両舷に均等に乗客が収容されていたとすると、三等船客の配員は次のようになります。




問題の一番中甲板客室の左舷には25人の義勇団がいたと推定され、全員が機雷爆発で即死したと考えた場合、三等船客の生存率は触雷による即死者を除き、次のように57.65%から63.28%、全体の生存率は68.9%になります。タイタニックのように三等客の生存率が特に少ないことはありません。また、一時、人種差別で朝鮮の人の救命艇への乗艇が制限されたとの噂がありましたが、朝鮮の人は3人で1人は船員、犠牲者は船客1人だけでタイタニックのような人種差別の事実はありません。




一時間で沈没したにもかかわらず、生存率が高いのは、救命艇の数が十分であったためですが、気比丸の場合は荒天であり、救命艇を降下させるダビットの操作が不便であったこと、船休が左舷に傾斜したこと等の不利な条件下であったにもかかわらず、8号艇の場合、退船命令が出てから数分で降下、着水、最後の1号艇でも53分で降下されました。タイタニックでは、重力式の便利なダビットを備えていても、最初の救命艇、7号艇が着水するまで45分も掛かっており、最後の救命艇であるエンゲルハルトボートDの降下には2時間も掛かっています。エンゲルハルトボート(A〜D)は甲板の上にあるので降下には手間がかかりますが、条件は、気比丸の3号、4号艇と似たようなものと考えられます。(3号、4号艇は5号、6号艇の下に積まれていた。) 従って、タイタニックに二倍の数の救命艇が備えられていても、一旦降ろされた救命艇のロープをデッキまで巻き上げ、次のボートにロープを取り付けて降ドさせる時間はなかったと想定されます。


3.両船の救命艇の配置

気比丸の救命艇は図3のように配置されており、5号艇と6号艇はそれぞれ3号と4号の下に搭載されていました。タイタニックの救命艇の配置は図4のとおりです。

3.1 気比丸の救命艇


図3 気比丸の救命艇配置

1-4号艇   8,500×2,600×1,090
5-6号艇   7,300×2,320×920
7-8号艇   8,500×2,600×1,090
9-10号艇   7,300×2,320×920
救命筏11個 (ゴム製品となっており、定員は5名程度)




3.2タイタニックの救命艇




なお、救命艇の番号は、右舷側が奇数、左舷側は偶数で右舷の一番前が1号艇になります。2号艇は1号の後ろではなく、上の図のように反対舷(左舷)の一番前のボートです。また、旅館やホテルと同様に船室内には白分の乗る救命艇が何号艇か、そこに至る脱出経路が書かれた図面が用意されているので自分の目で確かめ、一応脱出経路を通ってボートまで歩いてみると良いと思います。



写真1 船首右舷前方の救命艇


写真1は筆者が作ったタイタニックの模型で、右舷前部の救命艇を示したものです。最前部振り出し状態にあるのが一号艇、それから後ろに順次三、五、七号艇です。一号艇の内側に置かれているのは、エンゲルハルトボートのCで、煙突の横、船員室の上にあるのはA艇です。従って、最前部のダビットは、一号艇を降ろしたあと、ボートフォールを巻上げC艇に取り付けて、エンゲルハルトボートCを降下させ、さらに、甲板室の上のAを端艇甲板に降ろしてAを降下させることになり、一つのダビットで三隻を降下させることになります。AとCの着水時刻が不明ですが、文献によれば、実際は一号艇を降ろした後、屋根の上のAを降ろし最後にCを降ろす作業に入っているようです、なぜ、このような順序にしたのか分かりませんが、常識的には一号を降ろし、次にCに掛かり、Cを降下させている問にAを屋根から端艇甲板に下ろせば効率良く作業が進んだと思われます。

他のボートのことは省略させて頂いて、これら三隻のポートの様子は次のとおりです。

一号艇:常時振出てあり、降下させるのには一番条件が良いのに降下されたのは四番目でした。そうして、定員は40名であるにも係わらず乗客は5名、火夫など船員が7名、合計12名しか乗っていなかったのがこのボートです。乗艇者の中に金持ちのゴードン卿がおり、7人の船員に謝礼として当時では大金の5ポンドずつを渡し、買収ではないかと後で問題にされています。


図4-2 傾斜した船体


C艇:02:20の降ろされた最後のボートとされています。船体が左舷に6度傾斜し、降下中、ビルジキールが船側外板の鋲頭を擦り作業は難渋したとされています。6度程度でも船体が傾斜した場合は救命艇の降ドが困難であることが分かります。悪役にされた、船主であるホワイトスター社の重役であったイズメイ氏が降下直前に乗り込んだのがこのC艇です。彼は、後の査問委員会で、船客をさしおいて救命艇に乗り込んだ卑怯者として世の非難をうけ、淋しい生涯を送ったとされています。

A艇:一号艇降下後、端艇甲板に下ろされましたがその時には船首はかなり海面に突っ込んでおりロープを取り付ける間もなく、裏返しになった状態で波に押し流されています。このA艇は事故後一ヶ月たって、同じホワイトスター社の“OCEANIC”によって発見されています。


写真2 振出状態の一号艇


最上部で下を見ているのはスミス船長。
本艇にはビルジキールは付いていないようである。
(The Last Day of the TITANICより)




4.ボートダビットの相違

救命艇を降下させるボートダビットは気比丸がラジアル型 (Radial Type)、タイタニックはボートの自重で振出、降下させることができる当時最新のウエリン型(Wellin Type)です。

4.1 気比丸

気比丸のRadial型は装置は簡単ですがボートの振山が面倒で一人では操作ができず時間も掛かるので現在は認められておらず、殆ど見ることはできません。横浜に係留されている練習船の旧日本丸の1,2番を除いたダビットがこのタイプです。このダビットの場合日本丸の最後部の救命艇のように常時振出したままにしておけば直ぐに降下できますが、ぶら下がったままだと、ロープには常時荷重が掛かっており、波浪で破損することもあるので、通常は甲板上に格納されています。現在はボートの自重で振出しができる重力型しか認められていません。Radial型の振出しは図5のように行なわれます。


図5 救命艇の振出作業



         

写真3 格納状態



写真4 振出状態



写真5 ウエリン型ダビット

2隻の救命艇を搭載している状態
(タイタニックは1隻のみ)




図6 ウエリン型の振出し作業


4.2 タイタニック

ウエリン型はコードラント型とも呼ばれハンドルを回転させると支点が移動し下部の歯車が移動することにより簡単に振出ができます。また、所要の位置で停止させることもできコロンバス型が発明されるまで広く採用されていました。

ただし、いずれの場合も振出す前に、甲板との固着を外し、救命艇の中に雨水などが入らないように被せてあるキャンバスのカバーを外し、艇の横に取り付けられている手摺を外したり、重要書類などを積み込む必要があり、案外時間が掛かります。ウエリン型のダビットは図6のとおりです。このような便利なダビットがあったのに何故降下に時間が掛かったのかも謎の一つです。

なお、このダビットは、須田町の交通博物館に展示してある旧国鉄の昭和2年に建造された青函連絡船 亜庭丸,松前丸などの模型に搭載されているので興味のある方はご覧下さい。


5.救命艇降下作業

ロープにカが掛かっている場合には救命艇に限らず多かれ少なかれ危険が伴うものです。今でも救命艇降下試験の際に腐食したロープが切断したり、釣具が外れたり、滑車が飛んだりして飛び回るロープに打たれたり、ボートを吊る前後のロープが均等に下がらずにボートが前後方向に傾いた状態で宙吊りになったりして乗っている人が海に投げ出されたりする人身事故が年間何件か起きています。気比丸では、担当者がロープに挟まれて指を三本切断しています。また、折角水面まで降下させたのに吊っているロープが前後同時に外れずボ一の一方のロープがダビットに付いたままで波にもまれ、荒天の際には非常に危険になります。タイタニックでは着水してからロープが外れず、ナイフでロープを切断した救命艇が何隻かありました。若し、写真のように各ダビットに二隻のボートを積んでいた場合、次の艇を下ろすに際して、下ろしたロープを上に巻き上げ、甲板上の次の救命艇に取り付けるのにロープで吊金具を縛るわけにもいかず、ロープの先端処理にかなりの手間と時間が掛かった筈で二番目の救命艇が上手く降下できたかこの点からも疑問がもたれます。



図7 救命艇の傾斜図8 片吊り




6.ボート漕練

6.1 タイタニック, 気比丸, 八坂丸の場合

前記のとおり、救命艇の降下には、多かれ少なかれ危険が伴うもので、降下のための設備も常時保守点検をしていないと、ロープやダビットなどが腐食していたり、滑車が回らなかったすると、いざと言う時に素直に下りてくれません。そのために、航海中でも定期的な点検と、ボート漕練が必要とされています。

White Star社は、社内規定として、毎日曜日にボート漕練を行うよう決められていたそうですが、事件後の英国での事故査問委員会で述べられたWhite Star社の船員の証言では姉妹船のオリンピックでもボート漕練は実施されていなかったと証言しています。気比丸の場合は、出帆が午後で、翌一日、日本海を航海し翌々日には入港の準備などで、航海中にボート漕練を行うのは困難と思われます。筆者は気比丸の遭難の一年前に姉妹船の月山丸で新潟から北鮮の清津まで乗船しましたが、航海中ボート漕練が行われた記憶はありません。恐らく、停泊中に本船側で行っていたものと推察されます。また、八坂丸の場合は、重要貨物として、英国よりの金貨12,000ポンドを積んでいたこともあり、地中海でずっとドイツの潜水艦に狙われていたので、乗客が船内を歩く時には常時貴重品と救命胴衣を持つように船長から指示され、頻繁にボート漕練も行われていたと考えられ、雷撃を受け、僅か10分間で全員が救命艇に乗り移ったとされています。しかも、船客の殆どは日本語の通じないヨーロッパの人達で、犠牲者を一人も出さなかった山脇船長以下全乗組員の処置は船客のみならず世界を感動させたものでした。八坂丸の事件に就いては、講談社出版、安部譲二氏の「時速14ノット東へ」に詳しく述べられています。

タイタニックでは、引渡し前に二等航海士ライトラーが立ち会って、造船所の人達の手で全数の救命艇の降下、着水試験が行われ、出帆当日、4月10日の9時から30分かけて11号、13号艇の降下着水訓練がごく限られた船員の手で実施されています。ただし、船長に次ぎ重要な責任をもつ首席航海士のワイルドはその時にはまだ乗船していませんでした。ボート漕練が航海中、全然行われていなかったことが犠牲者を多くした原因の一つと考えられます。

6.2 救命艇の担当者と乗艇者

各救命艇には担当の船員が割り当てられ、艇長が決められています。気比丸では、一等航海士は8号、二等航海士は10号、三等航海士は4号で3号と9号は二人の操舵手、7号は二等機関士といった割当で、退船命令が出ると、すぐに部下を指揮し、準備ができ次第降下作業に入いっています。艇長も乗り込み人員点呼をして近くの海岸とか救助に来る船の方に向かって漕ぎだすことになります。タイタニックの場合も当然各救命艇の艇長は決められていた筈ですが、それを知らなかった乗組員が多かったとされています。降下に際しては当然首席航海士ワイルドが全体を指揮し降下作業が進められることになる筈ですが、実際は右舷は一等航海士マードック、左舷は二等航海士ライトラーが全体を指揮していました。首席航海士のワイルドはライトラーがボート振出の許可を求めたのに対しノーと返事をし二度も降下を許さずライトラーは直接船長のイエスを得て振出し、降下作業を始めたとされています。船長に次ぐ士官で全体を仕切らねばならないワイルドは何を考えていたのか、彼は8号艇を担当したとの記録がありますが、積極的に活動した記録は見当たらず、犠牲者を増やした責任は罷れないと思われます。

また、航海士の中でも、事態の重大さを知らされていなかった者がいたことも挙げられます。若し、各人が沈没は避けられないことを知らされていれば、小さな救命艇に移るのを躊躇した乗客を無理にでも乗せることができた筈だと思います。

スミス船長の“Women and children first" の命令は、次は(second)男性だとも理解できますが、左舷の場合は、ライトラーは“Women and children only"と解釈したようでこれを頑に守り、空席があったのに男性船客の乗艇を拒んだようです。“The Riddle of the TITANIC”などの資料で乗艇者の人数を計算すると次の表のようになります。ただし、各救命艇の人数は同じ文献中でも章によって異なっているのがあるので、筆者が若干調整しました。



表2 タイタニックの乗艇者数


ここで、不思議なことはいずれの場合も、乗艇者が、救出者を上回っていることです。ほぼ800名が救命艇に乗ったことになっているのに、生存者は700人ほどで100人の差が出ています。救命艇で命を落とした人は僅かで、逆に、途中、海上で泳いでいる人々を救助しているので救出された人の方が乗艇者より多くなる筈です。これは、乗艇者の人数がいかにいい加減だったかと言うことの現れです。艇長が人数を数えているようですが、真夜中で暗いこと、影になっている人を二度数えたりし、メモも取っていなかったと思われ、また、後で人数を忘れることも考えられます。大学で試験の時に出席している学生の数を数えましたが、40人ぐらいなのに、二三回数え直さないと正確な人数は得られませんでした。タイタニックの場合70人近く乗った救命艇もあり、査間委員会に報告された乗艇者の数は信頼できないことが分かります。また.救助された人の人数は、カルパチヤに救助された時に、正確に数えた筈なのに出典によりこれにも数人の差があるのはもう一つの謎です。乗船者の数にしても、タイタニックの人員に関する数字には信憑性が殆どないと言えます。

ここで、結論として言えることは、左舷艇の男性は全体の約13%、右舷艇の男性は30%で、右舷を担当したマードックが“Women and children first"を“Women and children first, next men"と解釈したことがうなずけられます。


7.救命艇降下時間

当時、海面は穏やかで、船体の傾斜も少なく、ダビットは最新鋭であったにもかかわらず、気比丸、八坂丸などと比べて救命艇の降下が遅れた原因としては、次のようなことが考えられます。

7.1 切迫感の不足

事故直後、船長は損傷状況を調査させ、設計者アンドリュースから後二時問程で沈没すると伝えられていますが、この事態を上級士官達には知らせず、当然乗客にも知らせなかったので、最初のうちは救命艇に乗るのを嫌がり、多くの救命艇は定員不足で降下しています。船長は皆に緊急な事態を伝えるとパニックになることを恐れたためと考えられ、また、乗客も、Unsinkableである本船の方が小さい救命艇より安全で、船の沈下も間もなく止み、沈むとは全然思っていなかったことが犠牲者を多くした一つの原因です。救命艇の定員が不足していることを知っていた船長は全員に事態の深刻さを知らせた方が良かったのか難しい立場にあったことは理解できます。

7.2 チームワークの悪さ

船長は、船の運命が迫っていることと、救命艇の定員が不足していることで、呆然自失してしまったと思われます。従って、事故後の対策、指揮能力がなくなってしまい、何らの決断もできない状態に落ち込んだに違いありません。それに輪を掛けたのが、航海士達のチームワークの悪さがありました。出帆直前にワイルドがオリンピックから転船になり、タイタニックの首席航海士を命ぜられ、どうした理由か彼は嫌々ながら会社の命令に従ったとされています。正午に処女航海に出帆するというのに本船に乗船したのは、9時過ぎとされており、一方、首席航海士になれると思っていたマードックは一等航海士に格下げされ、同様にライトラーも格下げされ、彼らの間では面白くない空気があったと推察されます。首席のワイルドと他の航海士達との顔合わせや打合せも無かったようです。従って、救助作業において指揮と命令系統が混乱し、これを受けて甲板員たちの行動もちぐはぐになり、もっと円滑に降下できた筈の救命艇の遅れに繋がったと考えても間違えないと思われます。また、各救命艇の担当者は決まっていたそうですが、それを知らなかった乗組が多かったそうです。

7.3 訓練不足

ホワイトスター社の社船では、内部規定に違反して救助訓練が他の船でも行われていなかったことが証言されています。乗組員の救命艇降下に対する知識が不十分であったことも事態を悪化させていました。先ず、船客を乗せた状態で救命艇を降下させるのはロープが重みで切れたりして危険だという考えが航海士を含めた船員の一部にあったこと、また、ボート甲板から乗艇すれば一番簡単なのに、一段下の、Aデッキまで下ろしてそこから乗艇させようとしたこと、下の方にある舷門からの乗艇を考えたことなど、認識不足には呆れるばかりです。Aデッキから乗り込むことは、窓から乗り込むのと同様に椅子か何かの台に乗って窓を潜り抜けることになり時間が掛かり、危険です。一度に多くの人達が乗り込むことも不可能です、訓練と認識不足もトラブルの原因の一つと考えられます。それに、着水してから救命艇を吊っていたロープ(ボートフォール)を旨く外せずこれを切断したのも納得がいきません。若し、一つのダビットに二隻以上の救命艇が配置されている場合は、前記のとおり次の救命艇を連統して降下させることは、緊急事態では不可能です。

7.4 シーマンシップの欠如

誇り高き英国のシーマンシップはタイタニックの場合どうなっていたのか、救助された船客から船員に対する感謝が表明されたとも聞いておりません。ただ、機関部員が命を省みずポイラーを炊き、発電機に蒸気を送ったため沈没寸前まで照明が消完なかったことが美談とされ、これを知ったエリザベス女王が感激して皇室の色とされる紫色を機関部員の色として使用を許したとされています。しかし、照明用の非常用発電機は上の方のデッキにある小型発電機で、必要とする蒸気の量も少ないので、あり余って放出している蒸気の一部で十分照明用の電気は賄えたと思われ、照明の持続はそれほどヒロイックなものではなかったような気がします。気比丸や八坂丸等の乗組員と比べるとタイタニックのシーマンシップはどうなっていたのかと疑わざるを得ません。


8.救命艇の降下に要する平均時間と超大型客船の問題点

今まで、多くの船の救命艇降下試験に立ち会いました。新造船の場合は、造船所のベテラン作業員が行い、装置も新しく、予備試験の後で正式な立会い検査の段取りになるので、ボートは順調に降下されます。

既成船の場合は、本船の平素の保守点検、訓練が行われていれば、時間の長短はありますが、一隻平均15分ぐらいでボートは着水します。この場合、我々が立ち会う前に既にボートカバーは外してありすぐ下ろせるように段取りがしてあるのが普通です。乗組員の質が悪く、老齢船では一時間以上も掛かる場合があります。ロープの段取りが悪く降下中、ボートが斜めになり乗っている船員が海に投げ出されそうになったことや、また、立会い中にロープが切れて危険な目に逢った同僚もいました。

注意すべきは、乗組の人間関係の擦り合わせが不十分な処女航海の時や、乗組員の多数が交代した直後の航海で何らかの事故が起これば、タイタニックのような混乱が起こる可能性が高いのではないかというのはあながち、杞憂だとは言えない気がします。

現在では、救助に向かう貨物船の乗組員の数が当時と比べ半分以下に減っており、色々な国の人達が乗っているので言葉の点でお互いの意志疎通が不十分であると問題にされており、タイタニックのような事故に際して、カルパチヤのような迅速な救助ができるかも疑問です。

最近、10万トン以上の超大型客船が就航し始めましたが、いくら救命艇の数が十分であっても、数干人の人員を一時間ぐらいの間に全員救命艇に移乗させることは、荒天の場合や船の傾斜等を考えると余程運が良くなければ不可能のような気がします。この意昧で、900人もの犠牲者を出したエストニヤの例もあり、あまり大型の客船を就航させるのはどうかと思います。参考までに、救命艇の場合、定員150名以上の大型救命艇は禁止されています。

なお、気比丸事件に関する昭和16年11月7日の朝日新聞の記事を添付します。





蛇足になりますが、ソ連からの浮遊機雷については、最近では事故の例はありませんが、明治後半から日本海で触雷で沈没する船があり、明治39年7月帝国海事協会(現在の日本海事協会)の理事長より、海軍大臣と逓信大臣に善処するよう建議書が出されています。意識的に機雷を流したのか、設置方法が悪く荒天等で自然に流れたのか分かりませんが、気比丸事件の直後外務省はソ連に厳重抗議をしています。しかし、誠意のある回答はなかったようです。真珠湾攻撃を一ヶ月後に控えて、ソ連を余り刺激したくないと言う考えが政府にあったのか、うやむやにされてしまったようです。また、戦争末期の昭和20年6月から終戦の8月15日までの間に、日本海でかなりの数の商船が沈没しています。米軍機の攻撃によるものもありましたが、この時期ソ連が意識的に機雷を流したのではないかとの疑いは拭いきれません。


参考文献
1) 気比丸関連  北日本汽船(株)杜史、 気比丸遭難追悼録、 当時の新聞記事
2) TITANIC関連 A Night to Remember 、 TITANIC Triumph and Tragedy、
An I11ustrated Story、 The Ridd1e of the TITANIC、 Unsinkable 、
The Death1ess story of the TITANIC、 TITANIC Destination Disaster、
The Story of the TITANIC as told その他


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